知識と雑学の備忘録
知っているとかっこいいかもしれないが、むしろ気持ちが悪いという可能性も否定はできない知識と雑学とトリビアとうんちくの備忘録
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チャップリンは五・一五事件で暗殺されていたかもしれない
1932年(昭和7年)5月15日、海軍の青年将校による反乱事件が起こり
「話せば分かる」「問答無用」の有名なやりとりの後、
時の内閣総理大臣、犬養毅が暗殺された。五・一五事件である。

そして、逮捕した青年将校の供述から、驚くべき事実が判明した。
五・一五事件の前日に初来日していた喜劇王チャップリンも、
暗殺の対象となっていたのである。

五・一五事件が起きた当日、チャップリンは犬養毅と親善目的で
会見する予定だったのだが、当時の運転手、高野虎市の機転により、
直前に会見の予定をキャンセルした。
チャップリンはその替わりに相撲を観戦したため、暗殺されずに
済んだのである。犬養首相が撃たれたという知らせを聞いたのは
国技館からの帰り道である。

もし、チャップリンと犬養毅の会見が予定通り行われていたなら、
チャップリンは五・一五事件で殺されていたかもしれないのである。

なお、チャップリンは、運転手に高野虎市(後にマネージャー)を
採用していただけでなく、一時期は使用人全員が日本人で占められて
いた程の親日家で、彼の有名なステッキも日本産である。

そして、これに懲りずに1936年(昭和11年)3月に二度目の来日を
果たしている。今度は暗殺の対象になるようなことはなかったが、
直前にある事件が起こり、日本は混乱の真っ只中であった。
青年将校による反乱事件、二・二六事件である。

チャールズ・チャップリン

ちなみに、チャップリンはアメリカで開催された
『チャップリンそっくりさんコンテスト』に本人であることを
隠して出場したことがある。

結果は・・・・・・・・惜しくも優勝を逃し、三位だった。

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関連雑学:
[033] 謎の映画監督 アラン・スミシーの正体
[012] クレショフ効果

参照:
Wikipedia「チャールズ・チャップリン」
4度の来日と天ぷら

画像:
ウィキメディア・コモンズ
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実はそんなこと言っていない偉人達の名言集
・ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

ゲーテの最期の言葉「もっと光を」は有名であるが、
実際には、単に窓を開けて部屋を明るくしてくれと言った
とする説が有力である。

・チャールズ・リンドバーグ

1927年に、世界初の大西洋単独無着陸飛行に初めて成功し、
パリ上空で「翼よ、あれがパリの灯だ」と言ったとされているが、
この言葉は、後世の脚色であり、リンドバーグはその時、
パリ上空にいることすら知らなかった。しかも、
パリ着陸後の第一声は「トイレはどこですか?」だったらしい。

・マリー・アントワネット

フランス国王ルイ16世の王妃、マリー・アントワネットは、
民衆が今日食べるパンもなく、餓えで苦しんでいると聞いた時に、
「パンがないならお菓子(ケーキ)を食べればいいじゃないの」
と言ったとされているが、実はそんなことは言っていない。
上記の発言は、本当は、他の貴族が後世に言った言葉である。

・ナポレオン・ボナパルト

「我輩の辞書に不可能の文字は無い 」という言葉は、有名だが、
実際には「不可能という言葉はフランス語には無い」もしくは、
「不可能というのはフランス的ではない 」と言ったらしい。

・エイブラハム・リンカーン

ゲティスバーグ演説で言った「人民の人民による人民のための政治」という
言葉は有名だが、リンカーンのオリジナルではない。
旧約聖書にジョン・ウィクリフが序文として書き込んだ文章の引用である。

・福沢諭吉

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」は、
福沢の著書『学問のすゝめ』にある一節だが、
オリジナルではなく、アメリカ合衆国の独立宣言からの引用である。

また、この文には続きがあり、全文の大意は、次のようなものである。
「人は平等なはずなのに、世の中には貧富の差がある。
何の違いによるのだろう。それは、学問をしているか
していないかの差である。よって、学問をしなさい。」

・板垣退助

板垣退助が遊説中に刺された時に「板垣死すとも自由は死せず」
言ったとされているが、実際に言った言葉は、
「痛くてたまらねえ、医者を呼んでくれ」だったといわれている。

参照:Wikipedia「チャールズ・リンドバーグ」
  :Wikipedia「マリー・アントワネット」
  :Wikiquote「ナポレオン・ボナパルト」
  :Wikipedia「エイブラハム・リンカーン」
  :Wikipedia「板垣退助」
  :Wikipedia「学問のすゝめ」

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世界一短い戦争・世界一長い戦争、日露戦争は最近終わった?
世界一短い戦争それは、イギリスとザンジバル(現在のタンザニア)
間に起こった戦争で、1896年8月27日午前9時に戦争が開始され、
45分後に終了した。

世界一長い戦争それは、335年戦争と呼ばれるもので、オランダとシリ
ー諸島との間に起こった戦争で、1651年から1986年まで335年間続いた。

なお、日本もつい最近まで100年近くにも及ぶ長い戦争をしていた。
その戦争とは、日露戦争である。

日露戦争は1904年に開戦し、翌1905年のポーツマス条約の締結により
終結した。しかし、当時、ロシア以外にも日本に宣戦布告していた国が
あった。ロシアの同盟国であったモンテネグロである。そして、モンテ
ネグロは、日露戦争終結後もポーツマス条約には調印しなかった。
というより、条約締結の場に呼ばれなかったので調印できなかった。
なぜなら、日・露・米の三国ともその存在を忘れちゃっていたのである。
よって、日本とモンテネグロは最近まで国際法上、戦争継続中であった。

そこで、開戦から100年近く経った、2001年、元サッカー選手サヴィチ
ェヴィッチがモンテネグロ代表として来日したついでに、終戦に合意。
日露戦争は、モンテネグロとの間でも正式に終戦した。

参照:Wikipedia「イギリス・ザンジバル戦争」
  :Wikipedia「Three Hundred and Thirty」
  :知泉Wiki「日露戦争」

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西郷隆盛は本名ではない?肖像画も本人ではない?
明治維新の立役者、西郷隆盛。本当の名前は隆永(たかなが)である。
では、なぜ、西郷さんは「隆盛」になったのか。

明治2年(1869年)、明治政府樹立に貢献した西郷隆盛は明治天皇から
位階を授かることになり、明治政府は書類に西郷の本名を記す必要が生じた。

そこで、明治政府は、西郷本人が函館遠征中で連絡がつかなかった為、
西郷の友人吉井友実(ともざね)に西郷の本名を聞きに行った。

吉井は西郷を通称の「吉之助」と呼んでいた為、本名をなかなか
思い出せなかったが、やっと思い出した「隆盛」という名前を伝え、
明治政府は「西郷隆盛」で書類を作成した。

ところが、吉井がやっと思い出した「隆盛」という名前は、実は西郷の父親の名前。
西郷は帰京後、この間違いを知ったが訂正せず、以後、父親の名前「隆盛」を名乗り、
戸籍にも「隆盛」と登録され、西郷隆盛となったのである。


西郷隆盛の肖像画


また、有名な西郷隆盛の肖像画は正確には本人のものではない。

西郷隆盛の肖像画は、西郷隆盛が亡くなった次の年の1878年に
キヨッソーネというイタリア人銅版画家が、人から特徴を聞いたり、
弟の西郷従道(つぐみち)やいとこの写真を参考にして描いたもので、
作者のキヨッソーネは西郷隆盛の顔を見たことがなかった。

西郷さんは、明治天皇が写真を欲しがった時でも断ったほどの
写真嫌いで西郷の顔写真は一切残っていない。

ちなみに、上野の西郷さん、連れている犬はツンという名前のメス犬。

参照:トリビアの泉で沐浴No.259 西郷さんの名前は「隆盛」ではなく「隆永」
写真:Wikipedia「西郷隆盛」

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